2005年3月29日
今日はウィスラーからバンクーバーに移動した。しかし、ずっと雨にたたられていたのだが、今日は頂上付近がどうも晴れているようだったので、バンクーバーに行く前に、滑り納めで一人でウィスラーのゴンドラに乗った。読み通り、ウィスラーのゴンドラの終点付近は快晴であった。素晴らしい光景である。初日に滑るのに骨を折ったウィスラー・ボウルばかりを滑る。初日に比べればずっと楽に滑れるようになっている。少しは勘を戻せたか。それでもまだまだ下手くそである。リフトで地元のスキーヤーと話をする。「雪が降った時に来てついているね」。何回かこちらに来て、人々に言われていたことだ。社交辞令か皮肉かと思っていたが、どうやら本当にそう思っていることが分かった。彼は地元なのにウィスラーがあまりにも酷い状況なので、今年はカリフォルニアのレークタホまでスキーをしにいったそうである。レークタホの雪は素晴らしいと、しきりに感心していた。え!レークタホってほとんどホームゲレンデのようなものだったのですが。私はレークタホでしか滑っていなかった時、スキー雑誌でいつも一番の評価を受けていたウィスラーでいつか滑りたいと思っていたのである。苦節10年、ようやく念願かなってウィスラーに来てこんなことを耳にするとは思っていなかった。確かに雪はイマイチかなとは思っていたのであるが。弘法筆を選ばず、というのは弘法のような名人だからこそ。私のような下手くそは雪を選ぶのである。まあ、ウィスラーでも十分楽しめたのだが、ちょっと肩すかしを喰らった5日間であった。

2005年3月28日
連日して雨が降った。ゲレンデは上の方にいくと雪になっている。今日はブラッコムのセブンス・ヘブンや、頂上のショーケースなどを滑る。筋肉も多少強化されたせいか、相当の距離を滑れた。午後はウィスラーに戻り、林間コースを滑ったりしたが、これは幅が2メートルくらいのコースで相当難しかった。途中、木の切り株に足が引っ掛かりそうになったが、これはまともに引っ掛かったら大怪我をしたであることに気づきぞっとする。

さて、今回ウィスラーに来て非常に感心したのは、ベースにおいて歩者分離が徹底していることである。特にウィスラー・ビレッジ内は完全な歩行者ゾーンとなっており、自動車のない環境を楽しむことができる。スキー靴で歩いていると自由があまりきかないので、自動車がいないことは有難い。また自動車がいないとレストランやカフェなどがその本来持っているエンターテインメント力を十分に発揮できる。結果、とても賑やかな公共空間となっているのである。

駐車場は、ゴンドラの駅から多少距離が離れた場所に設置されており、しかもマーケットプレイスやクリークサイドでは地下駐車場まで整備されている。クリークサイドなどは唯一の駐車場が地下駐車場なのである。これは積雪対策ということもあるだが、それより駐車場という連続性を遮断させる空間を創出させないための工夫なのではないかと思われる。

このようにウィスラーはゲレンデの規模だけで北米ナンバーワンとしての評価を得ているのではなく、その周辺のビレッジの環境づくりの細やかさ等が大きな魅力となっていると思われる。このようにスキー場のベースづくりがしっかりしているのは日本ではアライぐらいしか寡聞にして知らない。他はそもそも、そのようなベースをつくることも意図されているのかどうか。蔵王や八方、そして志賀高原などは、それなりの集客力があるので地下駐車場をつくり、歩行者専用の空間を整備することによって、その魅力を高めることが可能なのではないだろうか。


2005年3月26日
昨日、雪がなくて驚いたと書いたら、今朝起きてみたら一面銀世界であった。昨晩はまったく晴れていたのだが、夜のうちに30センチも積雪したらしい。昨日はゲレンデから素晴らしいコースト山脈の山並みが展望できたが、今日は雪が降り積もっているのでまったく見えない。しかし、雪は日本海のようなどた雪系で、あまり感心しない。8時過ぎにゴンドラで上の方までいく。すごいパウダー・スノーで滑るとひざまで雪に埋まってしまう。昨日の太ももの筋肉痛がまだとれてなく、膝を入れるたびに太ももが悲鳴を上げる。ううむ、年はとりたくないものだ。10時過ぎにはもうリタイアしてホテルに戻り家族と昼食をとる。レストランの高さに辟易したため、朝食は近くのカフェでスコーン類とコーヒーを頼むと4人で1000円程度で済んだ。昼食はスーパーで鮭、クリームチーズ、カマンベール、ケッパー、ハム、ベーグル等を購入して部屋で食べた。これだと格段に安上がりである。午後は昨日滑っていない家内と2本だけ滑り、部屋に戻り、昼寝をした。起きたらベースでは雪が雨に変わっていた。早めに戻って正解である。夕食も部屋で食べた。昼食の残りにまたスーパーに買い物にいき購入したサラダで済ませる。量も少なく、お腹も落ち着く。

2005年3月25日
昨日からカナダのウィスラー・ブラッコムに家族でスキーに来ている。私は大学時代にスキーをしていたのだが、就職をしてほとんどしなくなった。留学中は、留学先がサンフランシスコで近くにレイクタホという優れたスキー場があったので結構いったりしたが、帰国後は仕事が忙しく一切行くことができなかった。大学に転職して、去年からまた再開したのであるが、マイレージの有効期限も切れるので奮発して前から一度来たかったウィスラーに来た次第である。来て驚いたのは、ビレッジと呼ばれるベースにはほとんど雪がなかったことである。ベース周辺の標高は700メートル程度。コースも土が出ており、これはしまったと思わされた。しかし、実はウィスラーは頂上の標高は2200メートル近くあり、ゴンドラで上に行けばまったく積雪、そして雪質も問題がないことが分かった。もう一点驚いたことは、食事を含めて料金がバカ高いことである。長女をスキー・スクールに入れたのだが、リフト代を含めると3日間で3万円以上かかる。朝食のビュッフェも非常にお粗末な内容で1500円くらい取られた。宿泊先はコースト・ウィスラー・ホテルという既に減価償却が終わっているような粗末なホテルではあったが、大人リフト券付5泊パッケージで家族で12万円と日本に比べても決して高くはなかったのだが、食事代等は相当高い。スキーというのはアメリカではゴルフなどと比べてもはるかに裕福層のレジャーとして位置づけられているが、それでもこの料金の高さは庶民には相当敷居が高いことを改めて認識させた。しかし、ゲレンデは素晴らしいの一言であった。ウィスラーの頂上から降りるザ・サドルという真っ平らなバーンはダイナミックで楽しめた。同様に頂上から降りるウィスラー・ボウルというコースはスキーとスキー靴を新調したこもあり、思い通りに滑れず、急斜面とこぶにてこずり、その良さを実感できなかったが、何しろ雄大である。午後はブラッコムの方に出向き、ブラッコム・グレイシャーに挑戦する。ここは標高2200メートルの同スキー場最高点から、氷河の上を滑り降りてくるコースであるが、スキーをしていてよかったとつくづく思わせてくれた素晴らしいコースであった。流石多くのスキー雑誌で全米ナンバーワンの評価をされたスキー場である。ただし、このブラッコム・グレイシャーを降りてくる途中で足がもう悲鳴を上げた。立っているのも辛いほどガクガクしてきた。年をとったことをつくづく実感させられた。宿に帰ってきてもふとももの筋肉がひいひい言っている。あと、自分があまりスキーがうまくないことを自覚させられた。留学していた時点ではおそらく挑戦したであろう「エキスパート」コースを挑戦する腕と度胸を今の私は有していない。「アドバンスド」コースでさえ思うように滑れない。これは新しいスキー靴があまりフィットしていないことも一因であるが、修行が不足していることが大きな理由である。しかし、自分が大してうまくないことを知ることはいいことである。スキーで好きなことは、うまくなるとその分、新しい世界が展開することである。スキーが下手な人はスキーの楽しさを理解することは不可能である。うまく滑れる人にだけ、その素晴らしさが理解できる。努力した人だけが、あの素晴らしい世界を体験できるのである。ブラッコム・グレイシャーのバーンを滑っていく快感。これはある程度の腕がある人だけが許される世界である。そして、私はまだまだ自分の腕が未熟であるがゆえに体験できない素晴らしいスキー世界がその先にあることを知っている。もう身体も衰え、そのような世界に到達できないかもしれないが、その可能性が無ではないことは私をわくわくとさせる。

2005年3月23日
テンポロジーのセミナーが青山にあるカラーキネティクス・ジャパン(株)のショールームで行われ、「趣都の誕生」の著者であり、ベネチア・ビアンナーレの日本館の総合プロデューサーを務めた森山嘉一郎氏、鹿島建設の山本氏が講演をした。私も司会を務めたのであるが、森山氏の都市分析力の高さに強い感銘を受けた。これは、彼の著書を読んだ時点で理解できたことであるが、オタクという側に立ちつつも、オタクの志向性と都市とのインターラクティブな関係性を見事に捉えている。また、希有なるオタクのスポークスマンでもある。オタクを我々はほとんど理解していないことが、今回のセミナーでも露呈された。オタクを単なるマニアと極めて表層的に捉えてしまっている。私も、自分は少しオタク的要素があるのではと思っていたが、それは単なる誤解であることが今日、判明された。私はまったくオタクの範疇にはなく、オタクとは別種の人種であることが判明した。そう、もうオタクとそうでない人間はカテゴリー的には「種」が違うくらいの差があるのだ。どこで違うのかといわれると、それは「趣」味である。私がオタクになろうとしたら相当の修行が必要だろうが、しかし、それは修行をすればなれるようなものでもないのである。私がコーカソイド(白色人種)になれないように、それはもはやなれないものなのである。私はアニメ美少女に「萌えない」。そもそも「萌える」感覚を有していない。オタクとしては絶望的な才能の無さである。私と同世代にも、銀河鉄道999のメーテルや、めぞん一刻の音無管理人に「萌えた」奴らがたくさんいた。しかし、私は「萌え」なかった。ここが、オタクになれたかどうかの分岐点であったのである。さて、そのようなオタクではない私にとって秋葉原は景観的にも汚い、ラブホテル街のように外国人達からは見せたくないような場所である。私は以前、景観ガイドライン案を作成するような仕事をしていたこともあり、出来れば景観規制で「アニメ美少女」の大型看板設置禁止を推進したいように考えるものである。しかし、そのような考えは極めて一方的で、オタクの人権をも無視し、蹂躙するような発想であることが今回のセミナーでつくづく理解できたのである。オタクという人種を受け入れ、共生を図っていくことが重要である。宮崎勤がどの程度オタクであったかどうかは分からない。しかし、オタクという存在を広く世に知らしめたきっかけを彼がつくったことは否めないであろう。ただし、宮崎勤的なイメージでオタクを語ることは極めて危険である。我々はオタクを知らない。セミナーでもオタクのことを知っていた参加者は極めて少数であり、このセミナーに参加したことでオタクの実態像の輪郭が相当鮮明になったものが半数程度。そして、森川氏のこれだけの説明、そして鹿島の山本氏がその視点をまったく理解していない再開発プロジェクトの説明をしていたにも拘わらず、未だオタクを理解しない、むしろ自分たちの文脈で無理矢理把握してしまおうと思っていた参加者が半数ほどいた。というのが私の印象である。理解していない人達は差別的ではなく、ほぼ50代以上であった。まあ、オタクを排除してしまいたいと思う気持ちは理解できないでもないが、それはまさに人種差別である。中華街の景観デザインが嫌いだからといってそれを排除できないように、秋葉原のあの景観もそれなりに許容していくことが必要である。それはむしろラブホテルの景観規制より慎重に行うことが必要であろう。というのは、ラブホテルの利用者は人「趣」的な分離はそれほどないと思われるからだ。ともかく、今日のセミナーで私は秋葉原とオタクのことを非常に知らないことを知ったのである。少し、賢くなった。この少しでも昨日より賢くなることが、人にとって重要なことではないかと思う今日この頃である。

というのも、今日は卒業式でもあったからである。実は、卒業式に参加したのは今年が初めてである。今日の卒業生の中には私の講義を受けた学生も20名ほどいる。何人かが挨拶にきて、写真撮影もしたものもいる。佐藤、栂野、鈴木、濱橋、東松などだ。これら学生の中にはゼミに入っていないもの、途中で離脱したものもいる。そのような学生は卒業した後、大学との接点がなくなる。それは結構寂しいことだ。私はフィールドスタディという2週間海外に行く講義を受け持っているので、その参加学生とは近い関係になる場合がある。それらの学生の中にもゼミに入っていないものがいる。そういう学生達は将来、大学院とか進学する場合とか留学する場合とか、転職の相談などを大学の先生としたい場合は、私にするといいと思うのである。役に立つことが出来ないかもしれないが、誰かと相談することが重要である。学生は社会のことや仕事のことをほとんど理解していない。しかし、何より問題なのは、理解していないことや自分が無知であることを理解していないことである。だから勉強の必要性も分からない。大学は大学で、卒業式に「経済研究」など学生達がまったく有り難がらない学術論文集を渡したりしている。これは、ある意味で大学が学生に「大学が学生をいかに理解していないか、学生が欲しているものなど関心を持っていないこと」の最後通牒のような役割を担っている。私はその事実を知って、非常に陰鬱な気分になったのである。学生が理解していないことに大学にも責任があるのだろう。また4月から新しい1年が始まる。

2005年3月21日
この三連休で4冊本を読んだ。森山嘉一郎の「趣都の誕生」、安野モヨコの「監督不行届」、藤山哲人の「萌える聖地アキバ 」、岡田斗司夫の「失われた未来」である。どれもオタク関係の本である。秋葉原が今、大変なことになっている。秋葉原にはもうアニメ美少女の看板、ポスターが垂れまくっていて、タウンスケープを支配している。私は以前から、ベンチューリの「Learning from Las Vegas」などは秋葉原に比べれば可愛すぎる、と知人等には指摘していたのだが、ラスベガスよりはるかに秋葉原は進化(退化?)していることをしっかりと分析して言語化したのが森山嘉一郎の著書である。鋭い分析であり、秋葉原に何が起きているのか非常によく説明できている。私の理解も深まった。私も昔はよく秋葉原に行っていたが、現在は一歩も足を踏み入れていない。これは、私がマック・ユーザーであったためである。以前はマック関連製品は秋葉原でしか、実質的には手に入らなかった。しかし、2年くらい前に銀座にマック・ストアが出来てから秋葉原に行く必然性がなくなったのである。これは私にとっては喜ばしいことであった。というのは、私は東京で最も都市デザインが醜いのは秋葉原であると思っていたからである。しかし、その醜さも社会的な動向の反映であることを理解できた。まあ、私は嫌いだが、別にそこに快適な居心地を感じて、好きな人がたくさんいることは東京という都市にとっては多様性を高め、都市の魅力を高めるために素晴らしいことだと思う。しかし、そのような理解がない行政が秋葉原を再開発させ、しかもいくら東京都の職員と結婚したからといって紀宮を秋葉原に住ませるというのはちょっと乱暴すぎるのではないか。Hentaiという言葉をグローバル化させ、そのHentaiの総本山というかメッカである秋葉原に、いくら皇籍離脱したからといって住まわせるというのは不敬なのではないだろうか。って余計なお世話でしょうか。

2005年3月18日
ビオシティの杉田編集長と飲みに行く。青山のトゥインズ・バーから、三軒茶屋に行き、坪内祐三が今週号のスパで行きつけの店として紹介している「味とめ」、モデルのような女性達がバーテンダーをしている「Jubijin」、落ち着いたバー「Blue Pond」と杉田さんのスズラン通りお勧めフルコースを満喫させてもらった。当然、どこも杉田さんは顔であった。ジェリー・ガルシアの話で盛り上がり、近いうちに恐山に行き、イタコにジェリー・ガルシアを呼んでもらうことにした。バンを借りて、ずっとグレートフル・デッドをかけっぱなしにして、下北半島まで行くのである。我々だけでは寂しいので、仲間も募ることにした。そのうちビオシティとかでも告知するかもしれないけれども、興味がある方は是非ともご一緒に。問い合わせは私でも構いません。habidesign@nna.so-net.ne.jp まで。